超言理論

特に益もない日記である

些事/銀のスプーン

満たされた生活を送ると飽食する。

些事

 些事、ささいなこと。日記って「その日あった事を書く」ためのもので、つまるところ「何も無い日常でどれだけ小さな些事をすくいあげて話題にするか」って事だと思っている。そんな意味では、ここはDiaryではなくて、Private papers(手記)みたいなものなんだと思う。手記ほども、文字は書かれていないけれども。そんな事より「些事」に話を戻したい。日記は些事をすくいあげて話題にするところだと言ったが、これは実はとても重要な行為なのではないかと最近思うようになった。というのも、論文を書いたり消したり、ゼミ資料を書いたり消したりするうちに、何を取り上げ、何を説明し、何を書くべきか、という事が段々と見えなくなってきて、気がつくと細かなところだと思って省略した部分が重要で、重要だと思って力を入れて書いた部分が意外と不評で結局のところ省かれてしまったりする。これを解決するために内容の整理をしてみたり、文章を書いて、推敲して、消してまた書き直す、というのを繰り返したりするのだけれど、これが日記を書くのに似ている。今日はどんな研究をしたか、昨日はどうだったか、どんな大きな事があって、どんな小さな事があったか、そうやって物事の大小と仔細を整理して、文章を書いて、推敲して、書き直していくと、不思議と文章が書けるように思える。更に、意外と見えていなかった自身の研究の行き先や、新しいアイディアみたいなものが浮かんできて、よい。
もしかしたら、日記を書くときに「些事をすくいあげること」は「目に見えないような小さな手がかりを探して、すくいあげること」の練習になるのかもしれない。

すくいあげてはいけなかったこと

 そうそう言いながら、実際にはすくいあげてはいけない事というのもいくらかあって、例えば....現実とか。もうグダグダと2年間もTwitter-BOTだとか、自然言語処理だとかと言ってきて、似たようなカテゴリの、別のアプローチの、自分よりも若くて優秀な力にシェアだとか顧客だとかというもので負ける。評価の土台が違うだとか、目指しているものが違うだとか、そういう事もありますが、それでも、悔しい。自分自身にしか出来ない事があるのならば、きっと他人がどんな評価を与えられていても、それを認めて、自分は自分、他人は他人だと言えるのでしょうが、そう他人を認められず、自分自身のオリジナリティを見つけられないまま、些末な妬みを毎日拾い上げる自分が、嫌いである。

銀のスプー

 "銀の弾丸(Silver Bullet)"という言葉があって、それは決定的な解決策、なんて風に翻訳されたりする。ソフトウェア工学においては「銀の弾丸は無い」なんて非常に否定的な使われ方をするのだけど、それはそれ。「すくいあげてはいけなかったこと」というのを書いたのだけど、私はこれを解決するために2種類の方法を用意した。一つは、見ないこと。自分の世界を狭くする、世の中は狭くて、私は私の私の友達くらいのことしか見えない、見ることができないんだ、という環境を用意すること。言ってしまえば「すくいあげてはいけないことはすくいあげない」ような、万能な匙、銀のスプーンを用意すること。もう一つは、他人を認められるくらい優秀になること、こっちは銀の弾丸。つまり、簡単にできれば誰も困らないってこと。
余談だけれど、悔しさをバネにした努力は行き先を間違える、なんて言う人も居た、確かにそうだと思う。でも、その「悔しさをバネに努力できる」という機会は人生においては数少ないもので、きっと、行き先を間違えたとしても努力したことに損はしないと思う。

 いろいろと書いたけれど、最後に少しだけ。
多分、私の心の奥底には「ここは私が評価を求める舞台じゃないんだ」という思いがある。ネタでなく、 真面目にやって、真面目に評価されたいのだ、と思っている。でも、真面目に研究や何らかの成果としてそれを世に出すことを行っていないのも事実で、結局のところ現状を自身で打破する気はなくて、「 白馬の王子様が救い出してくれる」みたいな悲劇のヒロインに憧れた少女が抱く妄想のようなものでしか、無い。 なんだかんだといって、「些事を救い出す」ことより「些事から救い出されたい」と思っているだけなのかもしれない。


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