超言理論

特に益もない日記である

刹那化/なやむこと

刹那化

 以前大学の講義でちょっとだけ取り扱われた話だ。その大学教授は「人間は通信技術の発展に伴って刹那化している」という。たとえば手紙、通信技術が発達する以前の手紙は何度も書き直し、何度も読み直し、そして幾たびの推敲を経て投函され、相手に届いた。しかし、通信技術、いわゆるインターネットが普及し、当然すべての家庭に存在し、そして携帯電話にもメールシステムが完備された今、手紙という文章主体の意思疎通の媒体は短文化、そして推敲や読み直し書き直しを通さずに、少し考えて、タイプし、そして送信する。すぐにその返事は返ってくる、受け取って、読んで、書いて、送る。そんな短い数行のメールのやり取りが当然のようになりつつある。
 メールだけではない。エンタテイメント、たとえばゲームであったり、音楽や映像であったり、そういったものも刹那化している。昔は(そもそもゲームというものはそう昔のものではないだろうが)ゲームというのは本体もカセットも高価で、そう簡単に買い換えたり新しいカセットを変えなかったものだ。だから、同じゲームを何度もやった、時には1人で、そして友人と、また別の役回りで、自分たちでルールを付け加えて…さまざま自分たちで工夫をしてゲームというものを楽しんだ。しかし、今ではそうはいかない、本体もゲームソフト自体も安価になり、そしてゲームというものはパソコンでプレイ可能なフリーソフト、携帯電話上でプレイできるアプリなどに形を変えた。ゲームというものが、世の中に溢れかえるようになった。当然今遊んでいるゲームをクリアすれば簡単に次に遊ぶゲームを手に入れることができるし、今やっているものが気に入らなくなれば別のものに鞍替えするだけの「遊びやすさ」のようなものが生まれた。「手軽さ」「遊びやすさ」「敷居の低さ」さまざまな言い方ができる、誰にでもゲームができる時代になったし、どんなゲームでもある時代になった。しかし、このゲームもそう、刹那化している。ゲーム自体につぎ込む時間や情熱は増えていたとしても、ゲーム一本あたりにつぎ込んだ時間や情熱は明らかに減っている。それどころか携帯ゲームなどに限っては一発屋とでも言おうか、本当に5分楽しむだけのゲームすら存在する。
 せいぜい10分、メールを書く時間も、携帯ゲームをする時間も、動画を見る時間も、刹那化している。

熱中すること

 なら逆に、熱中することとはなんだろうか。多くの時間をそれに割くこと、多大な労力をそれに割くこと、たとえばひとつのメールを書くのに1日も2日も悩むこと、ひとつのゲームを何週もプレイすること、一本の映画をすべての謎が解け、台本をすべて解説できるくらいまで見ること……それが熱中することだろうか。ひとつの事に熱中することというのは即ち、そのひとつのことについて深い理解を得るということではないだろうか。手紙ひとつにしても、自分の言いたいことをよく整理し、それを文章に直し、相手が理解しやすいように構成し、そしてきちんと礼儀作法に則ったひとつの完成品にする。その行為の中で、手紙の筆者は筆者自身と向き合い、悩み、そして相手のことを考える。それらを通して、筆者は筆者の中の隠れていた考えや思いをきっと見つけ出すことができるだろうし、改めて相手がどんな人間かを知るいい機会になるだろう。

悩むこと

 その大学教授はこのようにも言っていた。「一つのものにかける時間が短くなった、それに伴ってひとつの事に悩む時間も短くなった」今ではインターネット上でのコミュニティが充実している。何か問題がおきても、検索すればその模範的回答は割と簡単に手に入れることができるし、質問/回答を行うコミュニケーションサービスなどでは質問すれば1日かからずにさまざまな回答が帰ってくる。まず、私たちは悩む機会を失ったのだ。そして、例え悩んでも、それは悩むのではなく既存の解答を探すだけになった。自身の納得や意思などを抜きにしてその悩みを解決しようとしている。
 たくさんの問題を解決しようと臨んだ時、確かに的確にそれらしい回答と出すことは必要である。しかし、もし私たちの人生について重大なひとつの問題にぶち当たったとき、たとえば就職とか、進学とか、生きるか死ぬかとか、生きている意味とか、そういう話について悩んだとき、本当にその回答はインターネットの上にあるだろうか。自身の納得や意思を抜きにして「大学 どこに行けばいいか」と検索して、本当にすばらしい回答を得られるだろうか。自分と向き合うことを抜きにして、本当に自分が納得できる答えが出せるだろうか。

NOT "How to"

 声を大にして言いたい。悩んでほしい。苦しんでほしい。考えてほしい。
あなたがどうして生きているのかを
具体的に言うなら、たとえば大学を卒業して就職をする人たち、「どうしてこの大学を選んだのか」「どうしてこの会社を選んだのか」「どうして私はこんな学生生活を送ったのか」……etc
そこら辺に転がっている"How to 就職"に騙されないでほしい。確かに、"How to ~"というのは客観的で、それっぽい、でもそうではない。「就職の仕方」を学んで欲しくないのだ、私たちは「何かの資格や免許を取るために勉強をする」のではない、「勉強した結果、それを評し、その能力を約束するために資格や免許がある」のだから、「あなたが学んできた結果として、次の社会というステージに上がる」ものであって欲しい、決して「就職をするために、今まで勉強し、サークルに通い、趣味もそれなりにやって生きてきた」などとなって欲しくない。
きっと、今の世界に生きている多くの人間は、それこそ刹那的に就職も終わらせることができるだろう。ちょいちょいと、ぱぱっと適当に会社を選んで、エントリーして、面接も適当にこなして、十や二十か、百ないくらいの会社を適当に受けてくれば、どこか一つくらいは拾ってくれる会社があるはずだ。きっと、今まで適当に単位を取ってきたように、適当に会社も決まる。刹那的就職活動だ。
 それを良しとしないなら、悩んで欲しい。刹那的な解決に溺れず、那由他的とも永劫的とも言わないが、悩むに学生生活は短くない、せめて学生をやっている間くらいは自分が何のために学んでいるのか考えて欲しい、その先に、きっと単位をとるため以外の何かが見えるだろうから。

余談

 もし、単位をとるため以外の何か自分の納得できる真っ当な理由が分かったら、それを誰かに話して欲しい。教授でもいいし、中学や高校時代の先生でもいいし、友人でもいい、もちろん面接官でもよいだろう。
きっと、世界が変わるはずだ。いや、世界は変わらないけれど、あなたの視界は一新するほど拓けるだろう。


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