超言理論

特に益もない日記である

NLP若手の会(YANS2023)に行ってきた

ma13.hateblo.jp
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ふと思い返してみると,私が学生時代に参加していた頃のYANSでは,会の最後に委員長が「家に帰ってBlogを書くまでがYANSです!」と言っていた気がする.
実際,当時はBlogを書いている人口は多かった気がするし,今ではもう存在しないTwitterなどはあくまでTweetであって,マイクロブログ的な意味合いは強くなかった.
最近はZennなどへの投稿が多くなってきている気がする.
2014年,2015年は自分の中ではそれほど昔ではないつもりだったが,実際にはもう10年前であり,時代は移り変わり,すでに自分が若手の枠からおじさんになっていることを如実に示している.
実際,今回は若手研究者として研究発表のためにYANSに参加します!と言って参加したわけではなく,会社の営み的な意味での参加となった.
同世代の知り合いは結構招待公演とかでYANSに参加していますという人もいたので,次に参加するなら,呼ばれて参加する立場になりたいものである.



特に何か書くことがあるわけではないんだけど,せっかくなので記録は残したい,ということでYANSででた「病みの魔術に対する防衛術」の話をしたい.
かくいう私は大学院時代に同期からは「病みが深い」,先生から「一番病むようにに見えない一番病むタイプの人間」などと言われていたことを思い出す.
別に病んでいる(いた)人間の言うことだから素直に聞けという話ではないが,もしかすると同じようなタイプの人間はいるかもしれないので,一例として記録を残すのには意味があるかもしれない.そう信じて何か書く.





人間が心を病む時にはたいてい原因がある.
出来事かもしれないし,環境かもしれないし,他人かもしれない.
研究は良くも悪くも,環境や出来事や他人の影響を受けやすく,特に資金や査読,業績といった競争的な側面ではこれらの影響が顕著に出やすい.
研究をするのによい環境か,業績を出しやすい(言い方を変えれば,稼ぎやすい)環境や仕組みが整っているか,研究テーマが社会情勢やニーズと合致しているか,センセーショナルな出来事が最近起きたか,周囲の人間は頼れるか,協力的か,優秀か,様々な要因の複合された結果として「何とか研の学生は優秀」「なんとか社は最近伸びてる」という話が出てくる.
(こういった環境に縛られずに結果を出すと「すごい奴がいる」という話になるのだが,世の中の人間が全員それをできるのなら研究室・研究所なんていらないので参考にはならないと思う.)
ただ,グループ単位で伸びていても,個々人のメンタルはまた別である.
優れたグループに属していたとしても,その中での比較(=競争)が起きれば当然「同期より業績が少ない」という話は出てくるし,場の運時の運で「査読落ちた」といったこともある.
競うと勝つ奴が出てきて負ける奴が出てくる,負けが「病み」を生むのなら,勝率100%の化け物のような研究者(≒環境に縛られずに結果を出すような奴)以外は,必ず病みを生むことになる.


修士・博士の時は研究が忙しすぎて,比較的意識しないケースが多いが,「病みの魔術」は研究に限ったものではないと思う.
「中学の同級生は地元で結婚して子供も二人,最近一軒家も建てて順風満帆そうだ」「高校のよく勉強ができた同級生はもうすでに部長になったそうだ」「大学の学部の同級生は転職して外資に行ったらしい」「なんとか大のなになに君は研究以外にも山登りしたりカメラしたり,なんか色んな趣味でキラキラツイートしている」などの「私生活充実の負け感」も病みの原因になり得る.
特に,社会人になってから多い気がする.


「病みの魔術」とはそもそも何なのか.
この「病みの魔術」は,直接的に自分に危害を加えようとする人間を影響源としない場合は,ほとんどのケースで「術者が自分」というのが多いのではないだろうか.
少なくとも,自分はこのパターンが多いと思う.
「他人よりも優れていなければならない」「他人より秀でていなければならない」といった高いハードルの価値観がまずあり,その上で,その価値観が守られなかった時の無能さのギャップが病みを生む.
もしくは,「他人は頑張っているのに」「他人は優秀なのに」という,高い目標に届かない自分自身の無能さに腹立たしさや辛さを覚える.
もう一つあるのは,「術者が教育者・マネージャー」というケースだ.
「なんとか大生(なんとか大卒)なんだから,このくらいできて当然」「博士なんでしょ」「うちの研究所にいるんだからこのこのくらいの査読は通してもらわないと」と,高く設定したハードルの価値観を教育された結果,それを守れない自分の無能さのギャップで病みが生まれる.
「他人と比べて劣る自分」や「他人と比べて劣ることにされた自分」が「自分自身」に対して病みの魔術をかけている,という話ではないだろうか.


では,「病みの魔術」の行使者たる自分と,「病みの魔術に対する防衛術」の行使者たる自分,どちらも自分である場合は,どうすればいいのだろうか?
この系には自分しかいない.(他人が病みの魔術の行使者である場合は,法的措置など然るべき対応をとるべきである)
自分しかいない系を正常にするには,自分が変わるしかないのではないかと思う.
その変化が「研究をバリバリできるようになり,誰にも負けなくなる」ことなのか,「他人と比べない」「みんな違ってみんないい」のように心構えを変えることなのか,「病みを完璧に防衛する術を身につける」なのかは人によるのだろうが.

学生の頃はこういうことを考えるたびにプラネテスという漫画を読んでいた.博士課程中に最も読んだ漫画と言っても過言ではないかもしれない.
そのプラネテスのある場面で,主人公が自分自身の病み(孤独感)と対話するシーンがあり,そこでの主人公の一言が印象に残っている.

alu.jp
「全部オレのもんだ 孤独も 苦痛も 不安も 後悔も」「もったいなくてタナベなんかにやれるかってんだよ」*1
今思えば,これは「病みの魔術に対する防衛術」の最後の形の一つなのかもしれないと思う.




そんな「病みの博士課程」を終えた私が最近何を考えているのか書いておこうと思う.
端的にいえば,「病みの魔術に対する防衛術」は「ない」のではないかと思っている.

人間のリソースを100とした時,研究に100割くと,研究成果は自身の能力の中で100%になる.一方で,私生活は0に近づいていく.
研究100だが,実家に帰ればやれ近所のだれだれちゃんは結婚しただの,どこどこさんは子供が3兄弟だの,お前はいつ結婚するのか,人並みの生活は,一人で寂しくないですか,パソコン以外にやることないの,同級生はコンサートやサーフィンが趣味でキラキラしているだの,うるさく言われる機会が増えるかもしれない.
世の中に,せめて身の回りに,研究100の価値がわかる人間がほとんどなら良いが,そういう環境は珍しいだろう.
そして,そういう周りの人間を気にしないと言えるのなら,多分研究で他人がどれくらい優秀だろうが,それはそれと折り合いをつけて自分の研究したいことを研究できるだろう.
多分,周りを気にするタイプの人間は,一歩飛び抜けることで全てを解決するといったムーブはかなり難しい.
研究にリソースを100割いて「研究バリバリできるようになり,誰にも負けなくなる」ようになっても,私生活の病みの魔術に対する防衛術は大抵弱くなっていくのである.

仮に,多大な努力を払って研究100私生活100のリソース200スーパーマンになったとする.
同じように,多大な努力を払って研究200のリソース200スーパー研究マンが出てきて,それに負けるというのは想像に難しくない.
「研究と私生活どちらもやりたい」のうち,どちらかを選択した瞬間に,選択した自分は「選択しなかった方の選択肢をとった人間」に対して,選択しなかった方面では負ける.だって相手は自分が持っていないものを持っているんだもの.


もう「負けること」は織り込み済みで,勝ったことを評価できるようになるしかない.
「病みの魔術」の根本解決以外に目指すところはないのではないか,そう思う.




色々役に立たないことを書いたが,書いた人間は今は割と元気に社会人をやっています.
結婚して子供も生まれました.私生活70研究30くらいでなんとか研究者を続けています.
今回のYANS参加の目的の一つに「研究復帰を人に言う」と言うのがあった.コロナなどもあり,復職したことを伝えるタイミングがあまりなかったというのがある.
研究はリソースの30になるかもしれませんが,これからもまだまだ研究を続けていきます.
私でよければ呼んでください.一緒に研究をしましょう.育児の話をしましょう.

*1:引用:プラネテス(2)


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