超言理論

特に益もない日記である

最近覚えた偉い人の言葉

最近教えてもらった、どこかで見た偉い人の言葉で記憶に残っているものをいくつか。

自分の考えたとおりに生きなければならない。
そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう。

ブルージュ、フランスの小説家)

ソースコードとかも同じですよね。
思い描いたとおりに作らなければ、動いた通りに作ったことに(作ることに)してしまう。
特に、提供されている技術ベースで自分が作れるサービスを考えるようなことは。


ほがらかに死んでいくために、私は生きようと思う。

(ゲレルト、ドイツの作家)

過程で失敗しても、結果はまだ決まっていない。


幸福の最も大きな障害は、過大な幸福を期待する事である。

(フォントネル、フランスの著述家)

求めよ、さらば与えられん。と一緒に覚えておきたい。
できる限り貪欲に求め、どんな小さなものでも幸福が得られたことを喜びたい。


人生に執着する理由がない者ほど、人生にしがみつく。

エラスムス、オランダの司祭)

逆に言えば、人生を生きた理由が分かれば、晴れやかに死ねるのかもしれない。


心の中に暴力性があるのなら、暴力的になった方がよい。
無気力を隠そうと非暴力を口実にするよりは。

(ガンディー、インドの弁護士)

研究ミーティングとか時々こんな感じ。抗うだけ無駄だと利口な振りをすることで無気力を隠してはいけないのではないか。


鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。

(斎藤 緑雨、日本の評論家)

イノセンス。「自意識の鏡は人間に自惚れを映すことを許さなかったのです。」
鏡を看よといふは、反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり
自分で自分を見ても、迷うばかりで分かることなどなにもない。


人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。
肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。

ロマン・ロラン、フランスの作家)

きっと、そのとおりでしょう。


孤独に歩め…悪をなさず
求めるところは少なく…林の中の象のように

仏陀、仏教の開祖)

孤独は不幸ではない。少なくとも、幸福を齎さない伴侶を持つよりは。という節もあり。
林の中の木ではなく、たとえ孤独でも象として歩むこと。孤独であることを憎まず、孤独でない人を妬まず、孤独の飢えを代替の何かで満たそうとせず、ただひたすらに。


鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。声あるものは幸いなり。

斎藤緑雨、日本の評論家)

鳴く鳥を殺すのは悲しい、鳴かない魚は悲しくない。どちらも同じいきものなのに。
こんなに便利に、誰とでも繋がれて、自分の思いを大声にできるようになった時代に、暗く仄暗い無音の底で死ぬ人を、ただ家族も無く友も無く人生老いて孤独に去り逝く人を、悲しむ人は今の世の中に居るんだろうか。
声が無ければ誰も悲しまない。声有るものは幸福なり。さて、私の血は鳥の血か、魚の血か。

さいごに

おおよそボクらの悩むようなこと、行き詰まるようなことは昔の偉い人が通った道で、そんなものはその「昔の偉い人」の教えを聞けば良いのかもしれない。
「俺はそんな偉い奴(凄い人間)じゃないから、無理だ」と言わずに、それこそ"シーザーを理解するためにシーザーである必要はない"のだから。


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